タグ:太平洋戦争 ( 28 ) タグの人気記事

 

日本人遺骨収集事業に反発 フィリピン、盗難続発背景に

2010年10月2日3時2分 朝日新聞

b0161323_11195474.jpg フィリピンで第2次世界大戦中に戦没した日本人の遺骨を収集する厚生労働省の委託事業に対し、遺骨の収集や確認方法に問題があるとして地元住民や戦没者遺族、事業に協力してきたフィリピン国立博物館などから中止や改善を求める声が上がっている。同国各地で人骨盗難事件が起きていることが背景にある。

 比中部のミンドロ島東部で今年6月27日、大量の人骨を運んでいた先住民族の男3人が住民に捕まった。100カ所以上の洞窟(どうくつ)墓地から1千人分以上の住民の遺骨が持ち出された形跡があった。先住民族組織代表のアニウ・ルバグさん(40)らによると、うち2人が「骨を集めている者に売るために洞窟から盗んだ」と認めた。

 同島では厚労省の遺骨収集が行われている。ルバグさんらは「男たちが祖先の骨を日本人の遺骨と偽って提供しようとした疑いがある」として来週にも大統領府先住民族委員会に3人の刑事告訴と消えた骨の調査を求める方針。この動きを受けて、遺骨確認の協力をしてきた国立博物館は1日、住民の申し立てが先住民族委に届き次第、同島での収集を中止するべきだと日本大使館に伝えた。

 遺骨盗難はほかでも起きている。北部のイフガオ州ワンワン地区の地区長と地区議会は5月、「日本の団体が日本人の遺骨を買い取ると聞き、一部の住民が祖先の骨を売っている。収集には日本大使館員が立ち会ってほしい」とする要望書を大使館に送付。

 日本の戦没者遺族や生還者ら2404人も同月、「遺骨、遺留品の状況、専門家の鑑定を踏まえない粗雑な方策」だとして収集中止を求める要請書を厚労省に送った。

 比からの収集遺骨数は、2007年に東京のNPO法人が収集活動を始めてから飛躍的に増えた。それまでは年数十柱だったのが、昨年度は7740柱。NPOによると昨年度から厚労省の委託を受け、比全域で300人以上の現地スタッフが住民らから遺骨を集めている。遺骨を持ってきた人には日当として250ペソ(約475円)を払っているという。

 遺骨は、遺留品がない場合でも、発見者や発見地の地区長らの証言を宣誓供述書にとり、さらにそれを公正証書にした場合に日本人戦没者の遺骨と認定される。

 厚労省援護企画課外事室の担当者は「比政府との協議に基づき、比国立博物館が発行した証明書により、日本人戦没者の遺骨と確認している」としている。一方で同博物館側は「遺骨で判別できるのは性別や大人か子どもの違い程度。国籍は証言や遺留品から推測するしかない」と話し、日本人のものではない遺骨も収集されている可能性を示唆した。

 NPO法人は「大戦末期、日本兵は散り散りになった。現地スタッフが毎日情報収集し、戦史にない場所も探すことで遺骨が多く集まっている。フィリピン人の骨は全く混入していないと完全否定はできないが、きわめて少ない。遺骨盗難と我々の活動は関係ない。違法に遺骨収集をしている別の日本人グループによるものではないか」と話している。(フィリピン・ミンドロ島=四倉幹木)
[PR]

by yupukeccha | 2010-10-02 03:02 | アジア・大洋州  

<原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた

8月13日14時35分配信 毎日新聞

b0161323_18282067.jpg にぎやかだった新潟の市街地に人影はなく、音も消えた。「ガラーンとして、猫の子一匹いないという言葉通り。不気味だった」。緑茶販売会社「浅川園」の会長、浅川晟一(せいいち)さん(104)=新潟市中央区=は、65年前の新潟・古町の情景をはっきりと記憶している。終戦2日前の1945年8月13日。大和百貨店は営業を中止し、ウインドーには郊外への疎開を急ぐよう市民に命じる役所の張り紙が掲示されていた。

    ◇

 当時の新潟市は今の中央区と東区の一部が市域で、人口は約17万人。大陸と結ぶ物資輸送の拠点港として、軍事上も重要な都市だった。しかし8月に入っても、なぜか米軍のB29爆撃機による大規模な空襲はなかった。同じように無傷だった広島市には6日、長崎市には9日に原子爆弾が投下され、一瞬で壊滅した。「次は新潟が新型爆弾にやられる」。市民に恐怖が広がった。

 県は緊急に対応を協議し、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した。「(広島市は)極メテ僅少(きんしょう)ノ爆弾ヲ以テ最大ノ被害ヲ受ケタ」「酸鼻ノ極トモ謂(い)フベキ状態」「新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大キイ」。その文面からも当時の緊迫感が伝わってくる。

 知事布告は11日に町内会を通じて市民に知らされる予定だったが、うわさは10日のうちに広まり、その日の夜から疎開が始まった。郊外へ通じる道は、荷物を山積みした大八車やリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。郊外に知り合いがいない市民には集団住宅が用意され、13日までに中心部はもぬけの殻となった。

    ◇

 当時、兵器に使うアルミの製造工場に徴用され、工員の通勤定期券を買う係だった浅川さんは、疎開が許されず、出雲崎に家族を送り出し、古町の自宅に残った。軍需品や生活必需品の生産・配給、交通運輸、通信、電気供給などの重要業務に従事する者は残留を命じられたからだ。

 「どんな新型爆弾なのか、想像もできないだけに怖かった。だが自分には職務があり、逃げるわけにはいかなかった」。誰もが国のために尽くすことを第一に考えなければならない時代だった。

 浅川さんは、今の県庁近くにあった工場と、古町にあった交通公社の間を自転車で行き来するのが日課だった。15日朝、交通公社に出向くと、「正午から玉音放送というのがある」と女子職員から耳打ちされた。無人の街に響くラジオの音は聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたと知った。「正直、ホッとした。これで爆弾を落とされることはない」。恐怖から解放され、市民も疎開先から少しずつ戻ってきた。

    ◇

 実際に米軍が一時、新潟を原爆投下目標にしていたことがわかったのは、戦後のことだ。当時、市民が「次は新潟」と恐怖を直感したのも無理はなかった。

 浅川さんはのちに広島、長崎を訪れ、資料館で原爆被害の悲惨さを知った。もし最初の原爆投下目標が新潟だったら、多くの市民が疎開をする間もなく犠牲になったはずだ。「新潟が免れたのは紙一重だった」と思うと同時に、被爆地の痛みも人ごととは思えない。

 「軍人が日本を支配し、戦争を起こすような時代には戻してはいけない」。次の世代に託したい浅川さんの思いだ。【小川直樹】

 ◇ことば:原爆投下目標

 米軍は45年7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎を原爆投下目標に定めたが、8月2日の作戦命令で新潟を外した。新潟市が98年に「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」を編集した際、執筆者たちは米国の公文書などを調べ、「新潟は工業集中地区と居住地とが離れ、原爆攻撃に適さない」「(爆撃機が出撃する)テニアン基地から遠い」などの判断があったと推定した。
[PR]

by yupukeccha | 2010-08-13 14:35 | 社会  

「何で来ないの」「失礼だ」=米国、平和式典欠席で-長崎の被爆者

2010/08/09-18:32 時事通信

 長崎原爆忌の9日、米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席したことについて、長崎の被爆者からは怒りと落胆の声が相次いだ。

 16歳の時、爆心地から約1.8キロの地点で被爆した佐賀県の馬場和敏さん(81)は「何で来ないの。2発目の原爆を落とした長崎にも来て、被爆の実相を直接目にしないと。米国は一番来ないといけない国だ」とまくしたてた。

 同様に式典に参加した正林邦子さん(68)も、15歳の時から原爆症とみられる症状で苦しんできた。「広島に比べて、長崎を下に見ていると考えてしまう。しゃくに障りますよね」と憤った。

 長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄会長(81)は「米国は失礼だと思う。原爆を投下した国は責任を負わなければならない。長崎に来て謝罪してほしかった」と肩を落とした。

 長崎原爆遺族会の正林克記会長(71)は「広島に来たことは評価できる。ただ、広島と長崎の被爆者は一体であることを理解してほしい」と、やり切れない表情で話した。

 米国大使館の報道担当者は「招待状は受け取ったが、スケジュールの関係で行けないと返答した」としている。
[PR]

by yupukeccha | 2010-08-09 18:32 | 社会  

原爆式典、途中で「ゲゲゲ」に…NHK苦情殺到

8月6日13時8分配信 読売新聞

 広島市で6日に行われた平和記念式典を生放送したNHKが式典の途中までしか全国中継をしなかったため、「最後まで見たかった」などとする苦情約100件が同日午前中、視聴者コールセンターに寄せられた。

 NHKでは同日午前8時から同式典を全国中継したが、菅首相のあいさつが終わった同8時38分までで打ち切り、国連事務総長として初めて同式典に出席した潘基文氏らのあいさつなどは中継されなかった。

 鳥取県を除く中国地方では同8時58分まで放送し、潘氏のあいさつも生中継したが、東京などではドラマ「ゲゲゲの女房」を放送した。
[PR]

by yupukeccha | 2010-08-06 13:08 | 社会  

エノラ・ゲイ機長遺族は不快感=大使出席、「無言の謝罪」-米

2010/08/06-10:02 時事通信

 【ワシントン時事】広島に原爆を投下した米軍B29爆撃機「エノラ・ゲイ」の機長ポール・ティベッツ氏(故人)の息子は5日、CNNテレビに対し、オバマ政権が平和記念式典にルース駐日大使を派遣したことについて、「そうすべきではなかったと思う」と不快感を示した。

 アラバマ州在住のジーン・ティベッツ氏は、電話インタビューで、「これまで一度も行われてこなかったのに、なぜ今になって(代表団を)送るのか分からない」と批判。米政府は原爆投下に謝罪していないが、「無言の謝罪かもしれない」と述べた。

 また、原爆投下が戦争終結を早め、多数の人々の命を救ったとして、「当然、正しいことをした」と話した。
[PR]

by yupukeccha | 2010-08-06 10:02 | 北米・中南米  

残留日本兵日誌を出版 インドネシア独立戦争参加

2010.7.22 17:04 産経新聞

 第2次大戦後、インドネシアに残って対オランダ独立戦争に参加した残留日本兵の陣中日誌などを含む本が日本で出版された。研究者によると、残留日本兵は千人近くいたとされるが、現在の生存者はわずか3人。残留日本兵の貴重な一次史料で、専門家らは高く評価している。

 題名は「インドネシア残留日本兵の社会史 ラフマット・小野盛自叙伝」(龍渓書舎)。インドネシア・ジャワ島バトゥ在住の小野盛さん(90)が独立戦争当時に書いた「陣中日誌」「戦闘詳報」のほか、2004~08年に書いた「生涯の記」を合わせて時系列に編集した。

 北海道出身の小野さんは敗戦後、ほかの残留日本兵やインドネシア兵らと一緒に日本人遊撃部隊を結成。植民地復活を目指すオランダ軍部隊と戦い、左腕のひじから先を失ったが、独立戦争後もインドネシアにとどまった。(共同)
[PR]

by yupukeccha | 2010-07-22 17:04 | アジア・大洋州  

「東洋のマタ・ハリ」やはり処刑? 台湾で公文書発見

2010年1月22日19時19分 朝日新聞

 【台北=野嶋剛】戦前の中国大陸を舞台に旧日本軍スパイとして暗躍、「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子(中国名・金璧輝)を国民党政権が1948年に死刑にした際の確認公文書が、台湾が保管する当時の公文書の中からこのほど見つかった。

 川島芳子をめぐっては、処刑に替え玉が使われ、実は生存していたという説が根強くあった。だが、今回の公文書は、死亡説を補強する論拠になりそうだ。

 川島は中国清朝の王女として生まれ、日本の大陸浪人、川島浪速の養女になり少女時代を日本で過ごした。成人してからは中国大陸の日本側の特務機関で情報活動に従事。満州国建国や上海事変などにかかわった。「漢奸(売国奴)」として45年に北京で逮捕され、死刑判決を受け、48年3月25日に銃殺された。

 しかし、直後から「別の女性が金のネックレスと引き換えに替え玉になった」とのうわさが流布。知り合いだった故笹川良一氏も「遺体は別人」と語ったとされ、最近も「彼女を見た」といった証言が相次ぐなど、川島芳子の生存は歴史ファンの間で一種の伝説のように語られてきた。

 川島を逮捕した当時の国民党政権は処刑の翌49年に共産党に敗れ、中国大陸から台湾に敗走。この際、公文書も台湾に運ばれていた。

 昨年になり、台湾法務部(法務省に相当)が、刑務所行政の史料集を編集する作業中に、文書を総統府の研究機関「国史館」の資料庫から見つけた。川島の処刑1カ月余り後の48年5月17日、当時の国民党政権の司法行政省が、死刑判決を下した河北高等裁判所に事実関係の調査を指示したことが分かる内容で、指示は当時すでにあった生存説を受けたものだった。

 これに対し、刑を執行した何承斌・検察官は「彼女は国際的なスパイで顔を知らない者はいない。遺体は刑務所の外にさらされ、自由に写真も撮らせた。死刑囚は金璧輝(川島)に間違いない」と供述していた。

 川島を収容した北平第一刑務所の呉峙ゲン(ゲンはさんずいに元)所長も「死刑執行は検察官の身分検査と遺書確認の後に一撃で絶命させ、検察官が3回検視して死亡確認した」と証言した。遺体は処刑当日の午後、「日本人僧侶の古川大航が埋葬した」という。当時中国で戦没者の慰霊に努めた臨済宗の僧侶、古川大航氏(1871~1968)と見られる。

 このため、河北高裁は48年6月12日、調査結果をまとめた司法行政省への返答で「替え玉説は中傷で絶対にあり得ない」と結論づけている。
[PR]

by yupukeccha | 2010-01-22 19:19 | アジア・大洋州  

99円年金手当 元挺身隊が拒否

2009年12月25日 朝日新聞

 【ソウル=箱田哲也】太平洋戦争中に「朝鮮女子勤労挺身隊」として徴用され、厚生年金の脱退手当金を請求していた韓国人女性に、社会保険庁が1人あたり99円を支払った問題で、女性らは24日、手当金の受け取りを拒否する考えを明らかにした。

 韓国・光州在住の梁錦徳(78)らで、この日、ソウルの日本大使館前で抗議集会を開いた。弁護士によると、厚生年金の一時加入が認められた7人全員が受け取りを拒んでいるという。
[PR]

by yupukeccha | 2009-12-25 06:00 | アジア・大洋州  

戦時徴用の年金手当たった99円 元朝鮮挺身隊女性に

2009年12月23日5時0分 朝日新聞

 太平洋戦争中、「朝鮮女子勤労挺身隊(ていしんたい)」として10代で朝鮮半島から日本に徴用され、工場で働かされた韓国人女性たちが1998年に請求していた厚生年金の脱退手当金について、社会保険庁が7人の一定期間の加入を認め、各99円を支払ったことが22日、分かった。社保庁は請求から11年かかったことについては「個別の案件には答えられない」としているが、金額は厚生年金保険法に基づいて算定したとしている。女性の一人は「馬鹿にされた思い」と話した。

 脱退手当金を請求していたのは、40年代に挺身隊として三菱重工業名古屋航空機製作所道徳工場(名古屋市南区)で従事していた8人。支援者らによると、戦争中に亡くなって年金加入期間が短い1人を除く7人は今年9月、44年10月~45年8月の11カ月間、年金に加入していたと認定された。12月半ばには、脱退手当金として銀行口座などに1人99円が振り込まれたという。

 社保庁年金保険課によると、脱退手当金は厚生年金保険法に定められたもので、年金の受給期間に至らずに会社をやめた人が、厚生年金を脱退する際に支払われる一時金。86年に廃止されたものの、41年4月1日以前に生まれ、一定期間、掛け金を支払った人は今も受け取れる。その金額は、給与の平均額などから算出され、貨幣価値の変化などは考慮されないという。

 今回の認定・算定は、愛知社会保険事務局が担当した。7人の給与記録が存在しないため、同じ工場の日本人例といった関連の資料探しなどで時間がかかったが、当時の給与体系や加入期間などから99円に決定したという。

 ■戦後補償に詳しい内海愛子・早稲田大学大学院客員教授の話 年金の脱退手当金は、本来、戦時に動員された人たちが帰国する際に支払われなくてはならないものだ。それを戦後ここまで放置してきた以上、当時の金額のまま払えば、受け取った側が納得しないのは当然で、国や会社は誠意をもって向き合うべきだ。韓国併合から来年で100年。軍事郵便貯金をはじめ、戦後処理の諸問題を立法などで最終解決しなくてはならない時にきている。(三橋麻子、青瀬健)


 韓国・光州市の梁錦徳(ヤンクムトク)さん(78)が厚生労働省からの国庫金振込通知書を受け取ったのは12月半ば。金額欄には99円とあった。「だまされて徴用され、償いも長い間、待たされた。あげく、この結果。くやしい」と涙ぐんだ。

 韓国が日本の支配下だった1931年、朝鮮半島南西部の農家に生まれた。6人きょうだいの末っ子。教師を夢見たが、勉強を続けられるほど生家は豊かではなかった。「日本で働けば家が建つほどのお金がもらえ、学校にも通える」。そう教師から聞いたのは、級長だった6年生のときだ。間もなく、先輩ら23人とともに日本へ渡り、名古屋の三菱重工業で働き始めた。「朝鮮女子勤労挺身(ていしん)隊」だった。

 賄い付きの寮住まいで、朝から晩まで働いたことは覚えているが、給料をもらった記憶はない。会社に問い合わせるたび、「年金や貯金にしているから安心しなさい」と言われた。約10カ月後に富山の工場に移ったが、暮らしぶりは相変わらずだった。

 終戦を迎え、故郷へ帰ると、いわれなき中傷を浴びた。挺身隊は「慰安婦」と混同されていた。日本にいたことをひた隠す暮らしがしばらく続いた。

 21歳で結婚。光州市に移り3児の母になった。ところが、数年後、夫は家を出た。日本にいたことを耳にして、やはり誤解したためだった。魚の行商などで生計を立てたが、近所から食べ物をもらい、子どもたちの飢えをしのがねばならない日も多かった。

 支援者らの協力などで98年5月、日本名だった「梁川金子」の年金記録を確認し、脱退手当金を請求した。しかし、社会保険庁は「掛け金は2カ月分のみ」として支払いを拒否した。あきらめずに、「消えた年金」問題が表面化した昨年、再交渉したところ、当時の日本人同僚の記録などから主張が認められ、今年10月5日には年金手帳も交付された。申請から11年が過ぎていた。

 今も暮らし向きは厳しく、脱退手当金に期待していた。「まさか、物ごいをしてももらえるような金額とは……。馬鹿にされた思い。挺身隊で人生が狂った。65年間の苦労を換算してほしい」
[PR]

by yupukeccha | 2009-12-23 05:00 | 社会  

「はだしのゲン」原画、広島へ 作者が平和記念館に寄贈

2009年12月10日19時1分 朝日新聞

 被爆後の広島が舞台の自伝的作品「はだしのゲン」で知られる漫画家、中沢啓治さん(70)=埼玉県所沢市=が、「ゲン」を含む全作品の原画を、故郷・広島市の広島平和記念資料館に寄贈することを決めた。中沢さんは「こつこつ書いてきた作品と、そこに込めた思いを多くの人に見てもらえれば、漫画家冥利(みょうり)に尽きます」と話している。

 寄贈するのは、デビューした1963年以降に発表した58作品の原画をはじめ、映像化された作品のフィルム、紙芝居などで、段ボール箱約30個分に及ぶ。中沢さんは長く自宅で保存してきたが、劣化の恐れが出てきたことから今秋、同館に寄贈を申し出た。大部分の資料は今月5日に広島へ発送した。

 94年から同館に寄託していた「はだしのゲン」の原画2735枚の所有権も同館に移す。白内障に伴う視力の衰えで今年執筆を断念した「はだしのゲン」の続編の未発表原画も追って寄贈するという。

 6歳で被爆し、父と姉、弟を亡くした中沢さんは66年、母親の死をきっかけに原爆をテーマにした作品を描き始めた。73年に連載を始めた「はだしのゲン」は単行本の累計発行部数が650万部を超すベストセラーで、10カ国語以上に翻訳されている。

 同館は寄贈された資料類を今後、企画展などで公開する方針だ。担当者は「大変貴重な資料。平和のために有効活用していきたい」と話す。(加戸靖史)
[PR]

by yupukeccha | 2009-12-10 19:01 | 社会