<原爆投下>「次は新潟」65年前の8月13日、市内から人が消えた

8月13日14時35分配信 毎日新聞

b0161323_18282067.jpg にぎやかだった新潟の市街地に人影はなく、音も消えた。「ガラーンとして、猫の子一匹いないという言葉通り。不気味だった」。緑茶販売会社「浅川園」の会長、浅川晟一(せいいち)さん(104)=新潟市中央区=は、65年前の新潟・古町の情景をはっきりと記憶している。終戦2日前の1945年8月13日。大和百貨店は営業を中止し、ウインドーには郊外への疎開を急ぐよう市民に命じる役所の張り紙が掲示されていた。

    ◇

 当時の新潟市は今の中央区と東区の一部が市域で、人口は約17万人。大陸と結ぶ物資輸送の拠点港として、軍事上も重要な都市だった。しかし8月に入っても、なぜか米軍のB29爆撃機による大規模な空襲はなかった。同じように無傷だった広島市には6日、長崎市には9日に原子爆弾が投下され、一瞬で壊滅した。「次は新潟が新型爆弾にやられる」。市民に恐怖が広がった。

 県は緊急に対応を協議し、当時の畠田昌福知事は10日付で市民に「徹底的人員疎開」を命じる布告を出した。「(広島市は)極メテ僅少(きんしょう)ノ爆弾ヲ以テ最大ノ被害ヲ受ケタ」「酸鼻ノ極トモ謂(い)フベキ状態」「新潟市ニ対スル爆撃ニ、近ク使用セラレル公算極メテ大キイ」。その文面からも当時の緊迫感が伝わってくる。

 知事布告は11日に町内会を通じて市民に知らされる予定だったが、うわさは10日のうちに広まり、その日の夜から疎開が始まった。郊外へ通じる道は、荷物を山積みした大八車やリヤカーを引いて逃げる市民であふれた。郊外に知り合いがいない市民には集団住宅が用意され、13日までに中心部はもぬけの殻となった。

    ◇

 当時、兵器に使うアルミの製造工場に徴用され、工員の通勤定期券を買う係だった浅川さんは、疎開が許されず、出雲崎に家族を送り出し、古町の自宅に残った。軍需品や生活必需品の生産・配給、交通運輸、通信、電気供給などの重要業務に従事する者は残留を命じられたからだ。

 「どんな新型爆弾なのか、想像もできないだけに怖かった。だが自分には職務があり、逃げるわけにはいかなかった」。誰もが国のために尽くすことを第一に考えなければならない時代だった。

 浅川さんは、今の県庁近くにあった工場と、古町にあった交通公社の間を自転車で行き来するのが日課だった。15日朝、交通公社に出向くと、「正午から玉音放送というのがある」と女子職員から耳打ちされた。無人の街に響くラジオの音は聞き取りにくかったが、日本が戦争に負けたと知った。「正直、ホッとした。これで爆弾を落とされることはない」。恐怖から解放され、市民も疎開先から少しずつ戻ってきた。

    ◇

 実際に米軍が一時、新潟を原爆投下目標にしていたことがわかったのは、戦後のことだ。当時、市民が「次は新潟」と恐怖を直感したのも無理はなかった。

 浅川さんはのちに広島、長崎を訪れ、資料館で原爆被害の悲惨さを知った。もし最初の原爆投下目標が新潟だったら、多くの市民が疎開をする間もなく犠牲になったはずだ。「新潟が免れたのは紙一重だった」と思うと同時に、被爆地の痛みも人ごととは思えない。

 「軍人が日本を支配し、戦争を起こすような時代には戻してはいけない」。次の世代に託したい浅川さんの思いだ。【小川直樹】

 ◇ことば:原爆投下目標

 米軍は45年7月25日までに広島、小倉、新潟、長崎を原爆投下目標に定めたが、8月2日の作戦命令で新潟を外した。新潟市が98年に「新潟歴史双書2 戦場としての新潟」を編集した際、執筆者たちは米国の公文書などを調べ、「新潟は工業集中地区と居住地とが離れ、原爆攻撃に適さない」「(爆撃機が出撃する)テニアン基地から遠い」などの判断があったと推定した。
[PR]

by yupukeccha | 2010-08-13 14:35 | 社会  

<< インド、「NDM-1」とインド... ひったくり:さいたま西区で2件... >>