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世論という名の魔物とのつきあい方

2009/7/12 00:00 ビデオニュース・ドットコム
ゲスト:菅原琢氏(東京大学特任准教授)

 世論という魔物が、政界はおろか、日本中を跋扈しているようだ。

 支持率の低迷で、自民党内からも公然と退陣を求める声が上がるなど、麻生降ろしが本格化し始めている。もともと国民的人気が高いという理由から、選挙の顔として擁立されたはずの麻生首相だが、今は人気の無さを理由に、首相の座から引きずりおろされようとしている。これも世論らしい。

 かと思うと、宮崎県で圧倒的な人気を誇る元タレントの東国原知事の国政進出をめぐり、自民党の大幹部が右往左往するなど、いつ来てもおかしくない総選挙を控え、政界は「人気がすべて」の様相を呈し始めている。これも世論だそうだ。

 確かに人気は民意を推し量るバロメーターの一つかもしれない。しかし、人気が政治を支配するようになると、何か大切なものが失われるような思いを禁じ得ない。そもそも私たちが「人気」と呼んでいるものに、実態はあるのだろうか。

 人気を測るツールの一つに世論調査というものがある。民主政治を機能させる目的で戦後直後に新聞社によって始められた世論調査は、今や毎月のように頻繁に行われるようになったが、少なくとも当初の世論調査は「輿論(よろん=public opinion)」を知るための手段と考えられており、現在のような単なる「大衆の気分」を意味する「世論(=popular sentiment)」の調査ではなかったと言われる。世論調査を報じる新聞記者たちの間にも、「輿論を聞け、世論には惑わされるな」という意識が共有されていたそうだ。

 しかし、いつしか「輿論」は「世論」に取って代わられ、政治は変質を始める。もともと代議制は、世論の政治への影響を緩和するための間接民主主義としての意味を持つが、人気に振り回されている今のポピュリズム政治は、事実上直接民主制と何ら変わらないものになっている。

 現在の政治はこの世論の動向に敏感に反応し、世論が政策決定にも大きな影響を及ぼすようになっている。政府は長期的には重要であることが分かっていても、短期的に不人気になる政策を実行することがとても難しくなり、外交や死刑制度といった国民の生活に関係する問題も、いわば俗情に媚びた決定を繰り返すようになった。

 世論調査に詳しい政治学者の菅原琢東京大学特任准教授は、そうした傾向の中で、ポピュリズム政治の代名詞と見られることが多い小泉政権こそが、最近ではもっとも世論をうまく利用した政治のお手本だったとの見方を示す。そしてそれは小泉首相が、人気取りをしなかったところに、そもそもの勝因があると言うのだ。

 確かに、日朝会談や郵政選挙など、小泉政権を代表する政策は、必ずしも当時の国民の間で人気の高い政策ではなかった。しかし、小泉首相は次々と大胆な改革を断行することで世論を味方につけ、高い内閣支持率を支えに、さらに次の改革を打ち出すことで、長期にわたり高い国民的人気を維持することに成功した。政策の中身の是非はともかく、小泉政権の高い人気が、結果的に過去の政権が成し遂げられなかった多くの施策の実現を可能にしたことは紛れもない事実と言っていいだろう。

 しかし、その後の自民党政権は、逆に人気ばかりを気にするあまり、思い切った政策を打ち出すことができなくなっている。一時的に人気のある人を首相に据えても、政策的に無策なため、たちまち支持率が低迷し、ますます大胆な政策が打てなくなる悪循環に陥っている。高い人気に後押しされて大きな成果をあげた小泉政権と、人気を気にし過ぎるが故に、大胆な施策を打てない安倍政権以後の政権のあり方は、実に対照的だ。

 一方、財源問題を抱える民主党も、支持率低下を恐れて、消費税は絶対に上げないことを公約するなど、明らかな人気取りに走っている。政権を取るためにはやむを得ない選択との指摘もあるが、小泉政権とそれ以後の政権の対比から、政治は何も学んでいないのだろうか。

 しかし、泣いても笑っても、天下分け目の総選挙は近い。有権者の中にも、世論調査や選挙予想を気にしながら、そろそろお目当ての候補者を見定め始めている人も多いはずだ。また、各党の人気取り合戦の方も、いよいよ熱を帯びてきている。

 政治に限らず、我々の周りには人気投票やランキングであふれかえっている。そうしたものに振り回されないで生きるためには、我々は何を支えに、どのような視座で「人気」というものを考えればいいのだろうか。

 今週は世論調査を入り口に、「輿論」と「世論」の違いや「人気」との付き合い方を菅原氏と武田徹、宮台真司両キャスターが議論した。

支持率に左右される政治

武田: 政治が数字で動き始めている実感がある。小泉内閣の支持率の推移について、政局がある度に支持率が盛り返している。支持率を背景に小泉内閣は様々なことをしてきたわけだから、支持率を上げるために色々なことを仕掛けていく政治手法になったのかと思うこともある。
 
菅原: 小泉内閣のこの動きに関して、それほど悪い動きではなく、いい見本であるように思う。有権者の側に受け入れられるようなことをすれば、支持率はきちんと上がる。逆に残念がらせることをすれば、支持率は下がる。そのように見ていけば、政治をどう運営していけばいいかがわかる。そのヒントを与えてくれる材料として、世論調査を使う方向に動いていけばいい。日朝会談はまさしくそれで、有権者の側からすれば、北朝鮮に捕らわれていた人を何人かでも解放したわけであり、政府はとにかく前進しようとする動きを見せた。有権者から支持されることをすれば、支持率は上がる。
 
宮台: ただ難しいのは、死刑問題というのがある。死刑を廃止した国では、基本的に死刑廃止前は死刑の支持者の方がほとんど必ずといっていいほど多い。フランスはミッテランのとき死刑を廃止したが、6割以上の国民が死刑廃止に反対だった。世論に逆らって、ミッテラン大統領が主導で死刑を廃止にしてみると、そうして良かったという世論が一般的になる。簡単に言うと、政治家が世論に左右されていいかは微妙な問題だ。世論はあくまで判断材料であって、世論あるいはオピニオンのパーセンテージが多いことと、国民にとって何が良いか、民にとっての幸せの道を示しているかどうかは別の問題である。

デモクラシーとポピュリズム

武田: 世論政治や人気政治という意味でポピュリズムという言葉があるが、世論調査は民の声を聞くことでデモクラシーを保証させるための制度だったと思う。しかし、それがポピュリズムを誘発するようなことになっているならば残念な結果だ。デモクラシーとポピュリズムの問題について意見を聞きたい。
 
宮台: ウィンストン・チャーチルが有名なセリフを作っていて、「民主主義は最悪の制度である。ただし、他の制度に比べればましだが。」と言っている。キリスト教文化圏ということもあるが、人が決めたことは間違っている、特にみんなで決めたことは間違っているに決まっているという命題が一つある。しかし、もう一つは、仕方なくみんなが従うという正統性の観点で言えば、デモクラシーという制度しかない。つまり、デモクラシーの決定は基本的に間違っていることが多いが、それに従うという意味ではみんなが従うので、その他の制度に比べれば、弊害が少ないと言っているわけだ。このチャーチルの命題はデモクラシー研究をする人にとって、いろはの出発点に当たるものである。つまり、みんなで決めたことは正しいという素朴な信念をどれだけ中和するかということが、政治家においても、政治家を支持する人においても、それを支えるマスコミにおいても、ある種の敏感さが要求される部分なのだ。
 ただ、日本に限って言うと、戦後GHQによる占領以降になるが、みんなで決めたことは正しいとアメリカの占領軍が日本人に思わせようとしたことが一つ大きな後遺症としてあり、みんなで決めたことは大抵間違っているというセンスがないと思う。従って、僕がなぜエリート主義ということを色々な著作で申し上げているかというと、実は敗戦まで日本には当たり前のように知識人たちの間にエリート主義があったからだ。 日本国民は基本的に不完全な存在である。従って、不完全な存在である日本国民の世論を代表してしまうと、とんでもないことになってしまう。そのため、将来あるべき理想の日本国民を体現する存在として天皇をおいた。実際、天皇は欧米化の見本であり、近代主義化の見本であった。従って、なぜ天皇主権であって、国民主権でなかったのかは、国民が不完全だったからだ。もちろん将来、日本国民が完全になった暁には主権者になるのだが、それまでは天皇が主権を持ち、憲法を通じて統治権力を行使するのがふさわしいという発想だった。ただ、こういう発想であったことは戦後教えられることが禁じられ、実際に起こったことではあるが、基本的には天皇を中心として国民を愚弄するような政治が行われたと思わされたということがあり、国民の意見が正しいという発想になってしまった。
実は、アメリカはみんなで決めたことは正しいとほとんど思っていない。従って、例えば死刑判決が下りたとしても、証拠は永久保存して、遺伝子鑑定できるようになれば、再鑑定の結果、冤罪で死んだ人が百何十人いるということが明らかになる。『12人の怒れる男』といった映画やO・J・シンプソンの裁判の検証報道の背景にあるのは、みんなで決めたことは多くの場合間違っているという確信だ。そういうある種の敏感さが僕達に欠けているが故に、日本特有のポピュリズムの危険があるのだろうと僕は思う。
 
武田: 可謬主義に立てるかどうかだ。間違えることを前提にして色々なことを考えられるかということだ。菅原さんの立場からポピュリズムとデモクラシーに関してはどうだろうか。
 
菅原: ここまで見てきたとおり世論というのは非常にゆれやすいものだ。それは考えてみれば当たり前で、我々が生活している中でどれだけ政治と関わっているか、あるいは政治家というものをどれだけ知っているかということを考えたらわかると思うが、地元選出の議員さんのこともよく知らない。しかし、それは当然であって、そんなことをいちいち考えていたら、忙しい現代社会を生きていけない。政治家の名前を調べ、他の政治家と比較し、その人の発言を集めて、それで投票するとしていたら、身が持たない。実際、普段は政治のことをニュース報道で見るくらいであり、その情報を受けて反応するので、ある時は支持率が高くなり、ある時は支持率が低くなることが起きて当然だ。その部分を中和する制度というか、それを当然とした上で成り立っているのが民主主義というものではないか。特に現在、先進国で一般的に採用されている投票により選ばれた議員が政治を行う制度は、それをうまくコントロール、和らげるところがあるのではないか。我々は適当に投票しているだけだが、選ばれた側の人はそれを真剣に考えて、世論が減税を要求しても、予算との関係で増税を決断することもある。エリートの側がしっかり意識を持って世論と対話、世論を参考にして政治をするのであれば、うまくいくというか、よりましになっていく。
 
宮台: そうすると西郷隆盛が儒教的民本主義を唱えたことや明治時代のリベラルな思想家の多くが民本主義であったことは当たり前のことだ。例えば、天皇主権であっても、国民の天皇として存在するかどうか、天皇の官僚が国民の政治をするかどうかがポイントで、選ばれた人は支持者の単なる要求ではなく、何を要求していようが国民の幸せのために必要なものを熟慮した上でコミットするかどうかが問題になる。そういう意味で言うと、エリートというのは単に能力がある人ではなく、能力プラスみんなの幸せのためにコミットする意欲を持つ人かどうかだ。ところが、そういう意欲を持たない、簡単に言えば国民の世論をそのまま反映しようとする政治家が増えるとすると、これは大問題になる。直接民主制と間接民主制が、なぜ間接民主制の方がオーソドックスでいいとされているかというと、菅原さんがおっしゃったように直接民主制の不安定さを吸収するバッファー、アブソーバーとして代議制が機能しているという発想があるからだ。基本的にポピュラーセンチメントに左右される政治は危険であるので、それをパブリックオピニオンに変換するための装置として代議制が機能することが期待されてきた。どうもその意味で言うと、直接民主制的なものに代議制が近づいてきてしまっている可能性がある。

出演者プロフィール

菅原 琢(すがわら・たく)
東京大学先端科学技術研究センター特任准教授。1976年東京都生まれ。01年東京大学法学部卒業。06年東京大学大学院法学政治学研究科博士課程単位取得退学。東京大学先端科学技術研究センター特任助教授などを経て、07年より現職。法学博士。
 
武田 徹(たけだ・とおる)
ジャーナリスト。国際基督教大学大学院博士課程修了。84年二玄社嘱託として編集・執筆を担当し、89年よりフリー。著書に『NHK問題』、『偽満州国論』、『隔離という病い』など。07年より恵泉女学園大学文学部教授を兼務。
 
宮台 真司(みやだい・しんじ)
首都大学東京教授/社会学者。東京大学大学院博士課程修了。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。博士論文は『権力の予期理論』。著書に『制服少女たちの選択』、『14歳からの社会学』、『<世界>はそもそもデタラメである』など。

by yupukeccha | 2009-07-12 00:00 | 政治  

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