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フィンランドで「救国の戦犯」に光

3月23日22時2分配信 産経新聞

 第二次世界大戦で祖国を守るため対ソ連戦争を指導し、重要戦争犯罪人(日本でのA級戦犯に相当)として裁かれたフィンランドの故リュティ大統領(1889~1956年)。戦後、ソ連の圧力を恐れフィンランドで功績が公に語られることはなかったが、ソ連崩壊後、初めて公式に伝記が出版されるなどリュティの名誉回復が進んでいる。昨夏のグルジア紛争でロシアの権威主義が顕在化する中、「救国の戦犯」に強い関心が寄せられている。

 フィンランド西部の小作農の家に生まれたリュティは幼少期から読書好きで、ヘルシンキ大学に進んだ。英オックスフォード大学に留学し西欧の自由主義に親しみ、1925年に中央銀行・フィンランド銀行総裁に就任した。ところが、39年11月、運命を変える事件が起きる。独ソ不可侵条約を結んだソ連の大軍がフィンランドに侵攻。「冬戦争」の勃発(ぼっぱつ)で当時の内閣は総辞職し、リュティを首相とする挙国一致内閣が成立した。

 リュティの伝記『祖国にささげた人生』を執筆したフィンランド国防大学のテュートラ博士は「ソ連侵攻を予期していなかった閣僚はあわてふためいたが、リュティは冷静さを失わず、祖国をソ連の侵攻から守り抜く強い意志を示した」と語る。フィンランドは40年3月、ソ連と講和したが、領土の一部を失った。

 ソ連の圧力が増す中、フィンランドはナチス・ドイツから武器を購入、ドイツ軍に領内通過権を認めた。41年6月、ドイツ軍のソ連奇襲侵攻が始まった。フィンランドもソ連の爆撃を受け、大統領になっていたリュティは冬戦争に続く対ソ連戦争「継続戦争」の開始を宣言した。

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 44年6月、リュティはリッベントロップ独外相に単独でソ連と講和しないと誓約する代わりにナチスから大量の武器弾薬を取り付けた。これでソ連軍の猛攻をしのぐ一方、ソ連との休戦を模索。祖国を守るには単独講和しか道がないと考えたリュティはナチスとの書面をいつでも破棄できるよう個人名で署名していた。ヒトラーをも欺いたのだ。

 同年9月、フィンランドは単独でソ連と休戦、連合国管理委員会の管理下に置かれた。休戦条件には戦争犯罪者の処罰が含まれていた。45年8月、連合国間で結ばれたロンドン条約で、従来の戦時国際法規にはない「平和に対する罪」などの戦争責任を指導者に問うことが決まった。

 東京裁判では東条英機元首相らがA級戦犯として裁かれたが、フィンランドでは「リュティらは捕虜虐待や民間人殺害を指導したわけではなく、戦争責任を問う国内法の根拠はない」として戦時指導者の自発的引退という形で処理しようとした。しかし、ソ連が強い影響力を持つ同管理委員会の干渉を受け、フィンランドは特別時限立法を制定して戦争責任裁判を実施。46年2月、リュティら被告8人全員に禁固刑が言い渡された。最高の禁固10年だったリュティは健康を害し49年に赦免されたが、公職には復帰しなかった。

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 リュティ伝記を書いたテュートラ博士の恩師はリュティの政策秘書を務めたヘルシンキ大学のプンティラ教授で、56年にリュティの国葬が営まれた際、「祖国を守るためには他の選択肢はなかった」と弔辞を読んだ。ハンガリー動乱に神経をとがらせていたソ連は当時、機関紙プラウダで「リュティは戦争犯罪者だ」と怒りをあらわにした。

 同博士がフィンランド教育省の依頼で伝記を出版したのは94年。「ソ連崩壊後、政府がリュティの名誉回復を求めた。それまでリュティの公式伝記が執筆されることはなかった」という。伝記はロングセラーになり先月にも3000部増刷されるなど計4万部が売れた。テレビ番組でリュティは2番目に人気のある祖国の偉人に選ばれた。

 冬戦争から70周年の今年フィンランドではさまざまな行事が計画されている。スタッブ外相(40)は「歴史はリュティを正当に扱わなかった。われわれは今、彼が本来評価されるべき位置に引き上げる課程にある」と言う。テュートラ博士は「継続戦争の開戦、ナチスとの取引、戦争責任裁判、服役のすべてがリュティにとり祖国への献身だった。ロシアで権威主義が台頭する中、わが国にとり彼の生きようを検証することはさらに重みを増してくる」と語っている。(ヘルシンキ 木村正人)

by yupukeccha | 2009-03-23 22:02 | ヨーロッパ  

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